守らないでほしいというワガママ
私は今、
ヘルパーさん(2箇所のヘルパーステーションから来て頂いてる)で、月に3〜4回の通院同行と週1の訪問介護。
看護師さんで週1の訪問。
新しい病気として感染型のコロナで危ない時期。
会う人、頼れる人は上記の方だ。
全員に感謝を持っている。
ありがとうございます、を必ず言う。
病気以外のことも沢山話す。
誰も来てなかったら、私は誰かと話すことなんて無かったと思う。
私は守られている。
色んな人が私を守っていて、見ている。
最近の私は元気なので、尚更見張られているとは思う。
死にたい人間は元気なとき程、死へ向かうことが多いのだ。
仕事として関わってくださってる方たちとしか話さない。
友達は近くにいないし、部屋で動画やゲームをして生きている。
私にとって死とは「救い」である。
揺るぎなく思っている。信仰とも取れるくらい。
他者からすると死とは「世界の消失」なのだ。
私が例え他人であろうと、毎週顔を合わせて話している人間が突然その人の世界から消えるのだ。
それはきっと怖いことだとは思う。
守らないでほしい。
ある程度、仕事という距離で離れてほしい。
ありがとうを残していくので、とうか許してほしい。
私が死のうと思ったのは
amazarashiさんの曲に『僕が死のうと思ったのは』という曲があり、それを聴きながら書いてます。
初めて死のうと思ったのは、小学ニ年生の頃。
全てが何故か苦しかった。
泣いては、自分の何が悪くて苦しいのか考えた。
もしかしたら「母のせい」なのかと思った。
母を殺そうと思った時に「私が死のう」と思った。
私は母を殺せるほど立派な人間ではないと思ったのだ。
それからはひたすらに何度も何度も何度も私は私を殺し始めた。
次に死のうと思ったのは、小学校高学年。
自傷行為が日常のものになった頃くらいだった。
仲良しだった友人二人、私合わせて三人組。
ずっと一緒に遊んでいたはずなのに、私を残して家族含む旅行に行ったことを、私は彼女らにお土産を貰って初めて知った。
人の世話になるな、と母が言ってたのはこういうことかと思った。
大人は気付いていたんだ、私が行けないことを。
私は気付けなくて、ただ悲しかった。
次に死のうと思ったのは、中学生の頃。
もうお風呂はとっくに壊れて無くなっていた。
それでも学校は楽しく、勉強も嫌いでなかった私は靴下を縫ってでも、縫いきれないところは指の間に挟みながら歩いていた。
友人に「〇〇(私)って何か変な匂いするよね」と言われた。
水風呂か銭湯か、お湯を鍋で沸かして洗面器で身体を洗っていた。
学校に行けない日が増えた。
大好きだった合唱部の練習に中々行けず、オーディションには通るのに「真面目に来てる子達に行かせてあげたい」と言われた。
生徒会長を勧められ、選挙のとき先生に「学校来てないからなれないよ」と言われた。
悔しくて悔しくて、泣きながら、学校に行きたくて、泣いていた。
もう、この先はずっと死にたかった。
道行く家族が羨ましかった。
お腹が空いている私は昼食の時間が苦しかった。
自由にしていい時間は深夜だった。
田舎の夜の空気は、気持ち良くて、アスファルトに寝転がって、星を見ていた。
死のうと何度も思う。
成人式に貰った小学六年生の頃のタイムカプセルには、私から私への手紙が入っていた。
「ちゃんと死ねてますか?」
過去の私に謝らなくてはならない。
幸せがあっても死ぬべきだった。
私は不幸せの方に目が行くのだ、それが楽だから。
逃げようと何度も思う。
私はここからもう動けやしない。
死ぬしかない時に、悔やみながら、悲しみながら、苦しみながらも、最上の幸せに包まれながら消えたい。
私が死のうと思ったのは、産まれたことを知った時だった。
今の私の全て
めちゃくちゃな長文を書きます。
宜しくお願いします。
私が産まれる前は普通より裕福くらいの家。
お金がなくなってきて、少し切羽詰まった状態の時に私は産まれた。
貧乏故の精神的摩耗、麻痺、思考停止、焦りとイライラに囲まれて暮らした。
家族との思い出は正直、殆どない。
昔のアルバムには私以外の実家族の写真が沢山残ってたのは未だに覚えてる。
私の写真は数枚と、少しの間通ってた幼稚園から貰ったものくらいだった。
私が6歳になる頃には家には怒号が飛んでた。
父と母が普通に話してるところを見たことがない。
けれど、私以外含めた家族写真では並んで笑顔だった。
この頃に私は「産まれたのが悪かった」と思い始めた。
小学校から母は家から出なくなり、行事に下の姉以外の誰かが来た記憶もない。
誰かの家のお世話になることを酷く恐れてた母は、私を簡単には遊ばせてくれなかった。
その時くらいにお風呂が壊れた。
3〜4年生くらいから私は冷たい水か、鍋で沸かした湯を薄めてお風呂に入ってた。
中学校から制服になってしまった。
指定の服を着るのは本当に大変で、ずっと自分で靴下を縫い続けた。
でも私には私服なんて殆どなかったから、綺麗で嬉しかったのは覚えてる。
スカートも、体操服も、服が増えて嬉しかった。
この頃くらいに洗濯機も壊れた。
洗濯物は手洗いか、コインランドリーだった。
でも中学時代では良かったことがあった。
自分でお金を稼ぐことが出来始めたことだった。
日給1万で休みは勿論、学校サボってでも行ってた。そのおかげで銭湯に行けたし、コインランドリーも行けた。
身体が汚い時は学校をよくサボった。
高校は行きたかった高校を諦め…八日市高校を諦めて、日野高校に入った。
父も母も話しかけても何も返ってこなかった。
この頃が1番働いてたし、それが楽しかったし、自分で使えるお金が少しだけあって、昼食をみんなで取れたのが嬉しかった。
でも駄目だった。先生に言われた。
お金がなくて進級出来そうになかった。
私はどうしても自分で働きたかった。
死に物狂いで見つけたのは「里子」だった。
幸いにも、家は崩壊してたのですぐ里子になれた。
一人でドキドキしながらも市役所に行き、福祉課に相談し、児童相談所ともやり取りして、病気で死にかけてる母を離婚させて女性保護施設に送って、家に居てくれてた大好きな下の姉の援助も頼んで、私は自転車で高校片道45分の里親宅に住んだ。
初めての「家らしき場所」に出会った。
里親さんには相当に嫌われてた。
私だけ外出や旅行など置いてかれた。
私の荷物は殆ど盗まれた。
でもその子達は怒られなかった。
それでも実家よりマシに思えていたのは、高校に通えること、ご飯があること、お風呂があること、後は人生で初めて布団で寝れたことだった。
社宅付きの仕事を探して受かり、卒業してから連絡を取ってない。
家がなくなった。
念願のちゃんとした仕事だった。
しかも好きな仕事で、私の成績はクソだっただろうに、面接を受けてその場で受かったのが嬉しかった。
真面目に働いた。本当に楽しかった。
嫌いな人も勿論居たけれど、上司さんや同僚さんたちに気に入ってもらえて、よく個人的に指導を受けさせてくれたり、ご飯にも連れて行ってもらってた。
重症心身障害者さんのグループホームでの生活支援員として、まともに働いてた。
だけど何が悪かったのか、全身に発疹が出てきた。
酷いところはぐちゃぐちゃに溶けてるみたいだった。
感染型だと職業柄危ないので、職場の看護師さんと話して病院に通った。
皮膚科から大学病院を勧められ、沢山の診察を受けた。
何故か身体はボロボロで、CTをよく撮られてたからお給料からどんどんお金は溶けた。
感染型ではなかったので職場に復帰した。
私はその時、自分では全然分からなかったのだけれど、今言える言葉で言えば、目の焦点は合わず、文章は読めず、指示をよく忘れ、時々立ちながら意識喪失してたようだった。棒立ち。
休んだ。休んだ。休んだ。回復しなかった。
1度復帰したけれど、ダメだった。
傷病手当金を受けれるだけ受けてもダメで、退去と共に、当時付き合ってた彼氏さんと同棲した。
社宅から出ていった。
家がなくなった。
東京に引っ越してからは、家事全般をやりつつ、家計も管理して、病気を治すことだけ考えて、毎日ひたすら頑張った。
彼氏さんが失踪した。5日間だけだったけれど。
ブラック企業が祟ったのか、200万いかない程の借金をしていた。
彼の親が一括返済してくれたけれど一緒に住めなくなった。
家がなくなった。
大阪の信頼出来るネットの友達の家に半年ほど住まわせてもらった。
1年程の給料で、私は少ないけれど50万は貯めてた。
家賃も払って、家事全般も手伝わせてもらって、少しずつ身体は良くなっていってた。
もう少しで正規雇用は無理でも、働けるかなと思えた頃だった。
大阪の友人が地元に帰ることになった。
また家がなくなった。
またまた死に物狂いで、出来るだけ誰にも負担なく、家を探した。
「生活保護」を受けようと、制度を調べ、申請しようと思った。
生活保護を受けるために大阪から東京まで何回か往復した。
朝に役所に行き、何時間も話し込み、または放置され、夕方に帰った。
ずっと長い時間、私は話し続けてた。
職員の副音声はきっと「帰ってくれ」だったと思う。
その日は「住所がこの地区じゃないと無理なんですよ〜」という発言に「ではホテルに泊まりますよ」の言葉で勝てた。
その場でホテルに電話して予約をした。
領収書を持って翌日役所に行くと、やっと申請させてもらえた。
私は多分頑張っていたと思う。
誰にも頼りたくないという点では愚かではあるけれど、誰かの知識や自分で調べたことをフル活用して、ずっと頑張っていたと思う。
私は一昨年くらいに障害者になった。
精神の方で障害者手帳を取った、2級だ。
そしてこれからも出来るだけ、人にも、国にも、頼らない未来の為に「障害者年金」を申請した。
めちゃくちゃに大変だった。
そして4月に返事が来た。
申請は通った。
障害者年金とは、過去年金を払っていて、障害を証明し、等級や家庭ごとに色々変わる。
私が障害者として国に書類上認められたのは、19歳くらいの時だった。
その「障害認定日」から障害者年金は発生していることになり、5年分遡れるらしく、私の過去の支給分を受け取った。
320万円。320万が突然振り込まれた。
まとまったお金が遡りで貰えることは知ってた。
この制度のことも知っていたし、申請した後の生活もちゃんと考えていたし、調べていた。
今回心が折れたのは、過去の支給分の320万の殆どが私が「生活保護」を受けていたせいで、殆ど取られることだった。
いや考えれば当たり前のことなのだけど。
「支給された期間」と「生活保護」がダブってるところは全て、後は医療費も引かれるので手元には殆ど残らないのに、一旦生活保護を停止するか、やめるか決めないといけない。
320万は大金だ。
私が障害者と認定されたのは彼氏さんと同居してた時。
その後に暮らしたのは大阪の友人宅。
住む場所さえあれば、少しずつでも働いてた。
(生活保護を申請する際には、お金がない証明と働けない証明をするために少し湾曲して話した)
悔しかった。
全て無駄だったようで。
私に家族が居て、家があったなら。
誰かに拾われてたなら。
住む場所さえあれば、病院に通いつつでも、勉強もしてたし、働いてた。
悔しい。まだ悔しい。ずっと悔しい。
貧乏なことも、不幸だったことも、全部どうでもよかったことが、今更になって私を殺した。
正直、死ぬしかないと思ったし、思わされた。
ここでハッキリと言うと駄目なので言いません。
でも悔しかったんだ。
過去の全ての「妬み」や「羨ましさ」はもう今は考えもしてなかったのに、一気に世界がまた真っ黒になった。
今は生活保護を停止するか、やめるか、ケースワーカーさんと話をする。
また家がなくなるかもしれない。
家がなくならないにしても、不幸は連鎖する。
生きていくことは不幸であり、死ぬことだけがやはり私の最高の幸せで、希望なのだと思った。
これから先も私は不幸を続けていく。
それはこれからも私は苦しんでいくということだ。
今までは「自分は頑張れている」が心の支えだったのが「自分は頑張れてなかった」と気付かされて、心は折れた。
それだけの話。
「異常」であるということ
ずっとずっとずーっとこうやって、
幼い頃から、自傷なんて言葉も知らずに自らを傷つけ、
お風呂がないことも、服も食事も少ないことも、
中学からお金を稼いで、知らない畑から捨てられた野菜を拾うことも、
近くの公園のトイレに行くことも、寂しくて苦しいのも、
ここで育った私にとってはそれが全て「当たり前の普通の家」だったのだ。
私に「それは異常だ」と言った人が現れてから、それは『異常なもの』だとされ、
異常だと知ってから、私は人間社会の少数者として生きることになって、
それでも就職し働いて、全てを失い、絶望のど真ん中に居て…
昔の地獄を知らない、地獄とされる場所に住む私のままで居たかったと、思う。
病気と診断されて、初めて「身体の痛み」を感じた。認識したのさ。
初めて「身体内部の違和感や痛み」も知ったんだ。
今まで、きっと私は頭痛も吐き気も風邪も病気もずっと多分知らなかった。
知らないままで良かった。
他の家も羨ましくなかった。
それでも『異常』と知り、欲を知り、欲しがるようになってしまった私の責任は誰がとってくれるんだろう。
誰もとれないと分かっていて、そんなことは分かっているのだけれど、
何故そんな残酷なことを私にしてくれたのだろうと、何度も何度も考えている。
私はずっと死にたかったけれど、何故それを悲しそうに異常だと言って、おかしいと笑うんだ。
生きていて良かったとは思えない地獄で生きてはいたけれど、
今の状況の方が実はもっともっと苦しい。
最初からずっと死にたいために生きていたのに。
映画「誰も知らない」を見ました
映画自体が好きで、常に何かの映像作品を見ているのですが、思いの丈をぶつける場所がずっと見つからず、心の中にたくさんの思いを膨らませたままで過ごしてましたが、今回はここに思いを置いていきます。
全てが、私の心の深くに突き刺さりました。
この情景を私は知っていました。
その時の、そのままの、色鮮やかにも思える感覚が蘇りました。
「誰も知らない」という題名は、多くの意味を含んでいるのでは、と思います。
この子供たちの存在、物語、感情を 誰も知らない のです。
一番大きい意味としてはこれが強そうですが、物語の終わりに向かっていくに連れて
この子供たちは 誰も知らない まま生きてきた。
子供たちはこれから誰かを知っていく。そして、映画は幕を閉じる。
子どもの存在が認知されること、子ども自身が誰かを認知すること、それで「誰も知らない」は終わるのです。
144分という短い中での描写は、セリフも少なく、大きなゆらぎがある場面がある訳でもなく、ゆっくり、ゆっくりと、でも確実に染みをつけるように時間は進みます。
誰かが救われるとかそういうものではなく、本当に誰も知らないものしか映っていないのが、また面白いなと素直に思いました。
是枝監督さまの作品は他にも見させていただいているので、思いが溢れた際にはここに置いていこうと思います。
2004年の思いの形を、2019年の私は受け取りました。
素敵な作品をありがとうございました。
誰も知らないこと
大切な人が沢山居て、色んなことが下手くそで毎日絶望に包まれながらも、やっぱり生きるのが下手くそである。
幸せもあるのに、積極的に自分を不幸にしようとする。
いけないことだ。
「自殺する人は、その行動力を幸せになることへ使えばいいのではないでしょうか」という文面に憤りを感じたので、少しそこらへんの話を…。
私は貧乏な家庭の末っ子に産まれ、高校1年生頃に学校通えないかもしれない…くらいになってしまったので、役所の福祉課に相談をしに行き、両親を離婚させて、母は女性保護施設に、私は自ら里子になりました。
家族はどう思っていたのか分からないですが、借金や、お湯が出ない水風呂や、手洗いやコインランドリーの洗濯も、もうやらなくていいように事を進め、必死でした。
親友に「行動力がある」と言われていました。
高校を卒業し、社宅のある職場で働いて暮らし、体調を崩すと共に精神的にもぶっ壊れてしまい、傷病手当て金を頂きながら、当時お付き合いしていた方の家に住むことが決まり、お世話になりました。東京に行きました。
職場の同僚に「行動力がある」と言われていました。
その後、同棲がすぐ解消されたのは、恋人の借金でした。実家もなく、頼れる友人もおらず、しかも仕事がまだ出来ない(ドクターストップ)状態で途方にくれながらネットで私と住んでくれる方を見つけ、大阪へ。
友人に「行動力がある」と言われていました。
大阪で1年程住み、とうとう貯金も底をついて、友人もこれ以上は…となり、私は生活保護を申請しに東京へ。そこでは3時間以上自分の身の上を話し、諸々含め半日かかりながらも、生活保護受給まで女性保護施設に居ることを得ました。
生活保護の申請にも無事通り、1人トランクケース片手に東京に移り住みました。
症状の悪化で通院が大変だということと、1度住んだことがあるところ、ネットでの親しい友人が近くに住んでることが東京に行くことへの決め手でした。
沢山の方に「行動力がある」と言われました。
けど、何故でしょうね。全然幸せではない。
ですがこれが、本当に努力せず、今まで幸せな道に進むための行動力を怠ってたってことなんでしょうか。
それでしたら仕方ないですよね。
生きるのが下手くそなだけなような気がします。
日本はもう終わりへの道を進んでいますね。
貧富の差や、マイノリティへの差別や、政治への無関心や、沢山の要因を含め、きっとこの先みんなが辛い人生になることでしょう。
私も、生きられるんでしょうか。
行動力を使い果たせますでしょうか。
行動力ってなんなんでしょうかね。
格好つけないことの格好良さを実行したい
本当に退屈で悲しくて絶望だったりする毎日の中で、まあ結局「思考しない」日がないな、と。
毎日ひたすら何かを考えていて、それはこうだ、あれはあれなのでは?なんて考えてわちゃわちゃになる。
このブログを放置した理由は「自分を知ってもらわなきゃいけない」と思い込んでいたことに気付いて、しかもそれは大して面白いことではなかったこと。
私はこんな人です、と。
私の過去がこんな感じです、と。
そして今の私になりました、と。
正直まじでいらないと思ったし、書いていて退屈で憂鬱になるので続かないですね。
これからはやっぱり、その時々の話したいことでも書いていこうと思います。
過去の記事も記事で、私にとっては大切な私の言葉なので消さずに非公開にします。
これからやったるで…!