今の私の全て
めちゃくちゃな長文を書きます。
宜しくお願いします。
私が産まれる前は普通より裕福くらいの家。
お金がなくなってきて、少し切羽詰まった状態の時に私は産まれた。
貧乏故の精神的摩耗、麻痺、思考停止、焦りとイライラに囲まれて暮らした。
家族との思い出は正直、殆どない。
昔のアルバムには私以外の実家族の写真が沢山残ってたのは未だに覚えてる。
私の写真は数枚と、少しの間通ってた幼稚園から貰ったものくらいだった。
私が6歳になる頃には家には怒号が飛んでた。
父と母が普通に話してるところを見たことがない。
けれど、私以外含めた家族写真では並んで笑顔だった。
この頃に私は「産まれたのが悪かった」と思い始めた。
小学校から母は家から出なくなり、行事に下の姉以外の誰かが来た記憶もない。
誰かの家のお世話になることを酷く恐れてた母は、私を簡単には遊ばせてくれなかった。
その時くらいにお風呂が壊れた。
3〜4年生くらいから私は冷たい水か、鍋で沸かした湯を薄めてお風呂に入ってた。
中学校から制服になってしまった。
指定の服を着るのは本当に大変で、ずっと自分で靴下を縫い続けた。
でも私には私服なんて殆どなかったから、綺麗で嬉しかったのは覚えてる。
スカートも、体操服も、服が増えて嬉しかった。
この頃くらいに洗濯機も壊れた。
洗濯物は手洗いか、コインランドリーだった。
でも中学時代では良かったことがあった。
自分でお金を稼ぐことが出来始めたことだった。
日給1万で休みは勿論、学校サボってでも行ってた。そのおかげで銭湯に行けたし、コインランドリーも行けた。
身体が汚い時は学校をよくサボった。
高校は行きたかった高校を諦め…八日市高校を諦めて、日野高校に入った。
父も母も話しかけても何も返ってこなかった。
この頃が1番働いてたし、それが楽しかったし、自分で使えるお金が少しだけあって、昼食をみんなで取れたのが嬉しかった。
でも駄目だった。先生に言われた。
お金がなくて進級出来そうになかった。
私はどうしても自分で働きたかった。
死に物狂いで見つけたのは「里子」だった。
幸いにも、家は崩壊してたのですぐ里子になれた。
一人でドキドキしながらも市役所に行き、福祉課に相談し、児童相談所ともやり取りして、病気で死にかけてる母を離婚させて女性保護施設に送って、家に居てくれてた大好きな下の姉の援助も頼んで、私は自転車で高校片道45分の里親宅に住んだ。
初めての「家らしき場所」に出会った。
里親さんには相当に嫌われてた。
私だけ外出や旅行など置いてかれた。
私の荷物は殆ど盗まれた。
でもその子達は怒られなかった。
それでも実家よりマシに思えていたのは、高校に通えること、ご飯があること、お風呂があること、後は人生で初めて布団で寝れたことだった。
社宅付きの仕事を探して受かり、卒業してから連絡を取ってない。
家がなくなった。
念願のちゃんとした仕事だった。
しかも好きな仕事で、私の成績はクソだっただろうに、面接を受けてその場で受かったのが嬉しかった。
真面目に働いた。本当に楽しかった。
嫌いな人も勿論居たけれど、上司さんや同僚さんたちに気に入ってもらえて、よく個人的に指導を受けさせてくれたり、ご飯にも連れて行ってもらってた。
重症心身障害者さんのグループホームでの生活支援員として、まともに働いてた。
だけど何が悪かったのか、全身に発疹が出てきた。
酷いところはぐちゃぐちゃに溶けてるみたいだった。
感染型だと職業柄危ないので、職場の看護師さんと話して病院に通った。
皮膚科から大学病院を勧められ、沢山の診察を受けた。
何故か身体はボロボロで、CTをよく撮られてたからお給料からどんどんお金は溶けた。
感染型ではなかったので職場に復帰した。
私はその時、自分では全然分からなかったのだけれど、今言える言葉で言えば、目の焦点は合わず、文章は読めず、指示をよく忘れ、時々立ちながら意識喪失してたようだった。棒立ち。
休んだ。休んだ。休んだ。回復しなかった。
1度復帰したけれど、ダメだった。
傷病手当金を受けれるだけ受けてもダメで、退去と共に、当時付き合ってた彼氏さんと同棲した。
社宅から出ていった。
家がなくなった。
東京に引っ越してからは、家事全般をやりつつ、家計も管理して、病気を治すことだけ考えて、毎日ひたすら頑張った。
彼氏さんが失踪した。5日間だけだったけれど。
ブラック企業が祟ったのか、200万いかない程の借金をしていた。
彼の親が一括返済してくれたけれど一緒に住めなくなった。
家がなくなった。
大阪の信頼出来るネットの友達の家に半年ほど住まわせてもらった。
1年程の給料で、私は少ないけれど50万は貯めてた。
家賃も払って、家事全般も手伝わせてもらって、少しずつ身体は良くなっていってた。
もう少しで正規雇用は無理でも、働けるかなと思えた頃だった。
大阪の友人が地元に帰ることになった。
また家がなくなった。
またまた死に物狂いで、出来るだけ誰にも負担なく、家を探した。
「生活保護」を受けようと、制度を調べ、申請しようと思った。
生活保護を受けるために大阪から東京まで何回か往復した。
朝に役所に行き、何時間も話し込み、または放置され、夕方に帰った。
ずっと長い時間、私は話し続けてた。
職員の副音声はきっと「帰ってくれ」だったと思う。
その日は「住所がこの地区じゃないと無理なんですよ〜」という発言に「ではホテルに泊まりますよ」の言葉で勝てた。
その場でホテルに電話して予約をした。
領収書を持って翌日役所に行くと、やっと申請させてもらえた。
私は多分頑張っていたと思う。
誰にも頼りたくないという点では愚かではあるけれど、誰かの知識や自分で調べたことをフル活用して、ずっと頑張っていたと思う。
私は一昨年くらいに障害者になった。
精神の方で障害者手帳を取った、2級だ。
そしてこれからも出来るだけ、人にも、国にも、頼らない未来の為に「障害者年金」を申請した。
めちゃくちゃに大変だった。
そして4月に返事が来た。
申請は通った。
障害者年金とは、過去年金を払っていて、障害を証明し、等級や家庭ごとに色々変わる。
私が障害者として国に書類上認められたのは、19歳くらいの時だった。
その「障害認定日」から障害者年金は発生していることになり、5年分遡れるらしく、私の過去の支給分を受け取った。
320万円。320万が突然振り込まれた。
まとまったお金が遡りで貰えることは知ってた。
この制度のことも知っていたし、申請した後の生活もちゃんと考えていたし、調べていた。
今回心が折れたのは、過去の支給分の320万の殆どが私が「生活保護」を受けていたせいで、殆ど取られることだった。
いや考えれば当たり前のことなのだけど。
「支給された期間」と「生活保護」がダブってるところは全て、後は医療費も引かれるので手元には殆ど残らないのに、一旦生活保護を停止するか、やめるか決めないといけない。
320万は大金だ。
私が障害者と認定されたのは彼氏さんと同居してた時。
その後に暮らしたのは大阪の友人宅。
住む場所さえあれば、少しずつでも働いてた。
(生活保護を申請する際には、お金がない証明と働けない証明をするために少し湾曲して話した)
悔しかった。
全て無駄だったようで。
私に家族が居て、家があったなら。
誰かに拾われてたなら。
住む場所さえあれば、病院に通いつつでも、勉強もしてたし、働いてた。
悔しい。まだ悔しい。ずっと悔しい。
貧乏なことも、不幸だったことも、全部どうでもよかったことが、今更になって私を殺した。
正直、死ぬしかないと思ったし、思わされた。
ここでハッキリと言うと駄目なので言いません。
でも悔しかったんだ。
過去の全ての「妬み」や「羨ましさ」はもう今は考えもしてなかったのに、一気に世界がまた真っ黒になった。
今は生活保護を停止するか、やめるか、ケースワーカーさんと話をする。
また家がなくなるかもしれない。
家がなくならないにしても、不幸は連鎖する。
生きていくことは不幸であり、死ぬことだけがやはり私の最高の幸せで、希望なのだと思った。
これから先も私は不幸を続けていく。
それはこれからも私は苦しんでいくということだ。
今までは「自分は頑張れている」が心の支えだったのが「自分は頑張れてなかった」と気付かされて、心は折れた。
それだけの話。